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宗教都市 京都へ向けて ~ 知足と経済活動

 

西村 周三 (医療と宗教を考える研究会 座長/国立社会保障・人口問題研究所所長)

 

 

 

 東日本大震災以降、日本人の考え方に変化が生じてきた。多くの人々が、人間同士の「絆」を大切にすることの重要性を意識しはじめた。大震災の経験は、底流にあった物質中心の豊かさから、人と人のつながりなどを大切にする「心の豊かさ」を求める社会への転換に拍車をかけているようだ。

 

 しかし経済を学ぶ者から見ると、ことはそれほど単純でないように見える。「もの」と「こころ」を対極におくことには抵抗はないが、経済活動は「もの」以外からも生まれる。本を買って読むという行為は、心を豊かにするであろうし、その価値に占める紙代は微々たる割合に過ぎない。映画産業は衰退しつつあるといわれるが、「フーテンの寅さん」が、私たちの心の持ちように与えた影響は大きい。

 

 またITと言われる技術をはじめ、さまざまな科学技術の発展に基礎をおいて生まれる心の豊かさもある。たとえば、医師や病院の提供する薬や医療機器の普及は、私たちの「こころ」のありように、どのような影響を与えただろうか? この疑問に対する答えは、それほど簡単ではない。延命措置の是非を論じることが盛んになっているが、一昔前までは、親族が揃うまでの時間の「延命措置」を歓迎する雰囲気はあった。しかしより高度な機器が生まれ、長期にわたる延命措置が可能になるにつれ、人々は過度な延命に疑問を持ちだしている。

 

 現代では、人々の消費行動のかなりの部分が「もの」ではなくなってきている。こういう時代にあっては、「こころ」の豊かさの追求は、お金や科学技術と切り離して論ずることは出来ない。おそらく「こころ」を豊かにする「もの」と、そうでない「もの」とがある、という想定で、一つひとつ具体的に考えていかなければならないであろう。

 

 他方で、人と人が交流する場の変化にも注目したい。市場という、売り手と買い手が、売買を行う場が、拡大、普及、支配することによって、人々の交流の仕方に大きな変化が生じたことは否定できない。

 

 そして売買をともなわない人々の交流の価値を見直すことの重要性が高まっている。おそらく市場の支配は、お金を介さない交流を損ねている可能性がある。たとえば床屋で、理容師とのんびりと話を交わしながら会話を楽しむという状況が昔あった。この様子は大きな変化を遂げているが、最後に理髪料金を払うという売買行為であるという点では変わっていない。しかし、人と人との交流という見方からすれば、昔を懐かしむ人々は少なくないに違いない。

 

 こういう話をすると、少なからぬ数の経済学者は、それは一人ひとりの好みの問題だ、というであろう。ゆっくり床屋で会話をしたい人は、そういう床屋へ行けばいい。他方で本来の散髪という行為のみを安価でしてくれるところもあっても良いではないかという。昔と比べて選択の幅が広がったことは、全体的には社会の幸せにつながっているはずだ、と。しかし私は個人的には、そうは思わない。「少欲知足」の「知足」という言葉は、おそらくこのような選択の範囲についても、制約を設けることだともいえると思う。

 

 この最後の論点は、私の個人的な意見である。本研究会や研究会の報告が、こういう議論を活発にする契機となればと思う。

 

 


 

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