宗教都市 京都 ~ 仁術と仁者
人や自然、生きとし生けるもの全て皆、これらを衆生とよぶ。 力強く生を生き、やがて老い、病を得て、死を迎える。 それら全てに人智が及ぶことなどたかが知れている。 「想定外」を「想定内」に抑え込もうと様々な数値をはじき出すより、歴史に学び自然と折り合いをつけて生きてゆくしかないのだということをしっかりと見るべきだ。 人間の限りない欲望を見ずして、何を悟ろうというのか。
まずもって己を知ること、自分の分限を知る。 私という人間は一体どういう人間なのか突き詰めて考えてみる。 そこに比べる世界に生きる自分が見えてこないか。 はるか向こうの地平にいついかなる場合でも、どんなものでも満足するということが見えてこないだろうか。 ああ、これでいい、もうこれで十分だと思う。 その気持ちがふっとわいたとき、欲望はいつの間にかどこかへ消え去ってゆくものなのだ。 人は死を前にしてよぎるのはごく平凡な日常の光景であり、身近な人や幼い頃の思い出であったりするという。 生きていれば様々な苦しみや悲しみもある。 一生を振り返ると、「無事」であったときのほうが、むしろ少ないかもしれない。
「医は仁術なり」 医は人命を救う博愛の道であるという。 論語に「仁者寿(にんじゃのじゅ)」とある。 「仁者」は道徳の完全に備わった人。 「寿」は自分の命をまっとうするということ。 長生きが全てではなく、生きる中において一つのことを一生懸命全力でやることによって、全てのことが整う。 いわゆる人道的な徳が備わる。 そういう人のことを「仁者」という。 そういう人は、時間・空間を越えて実にさわやかな生涯を送ることができる。
「医療と宗教を考える研究会」を通して宗教界・医学会・経済界、またそうした所に従事する多くの人々と出会えた縁を喜びたいと思う。